ぼうけんこぞう

旅と冒険(回遊ともいう)の軌跡と映画

虫の知らせと赤い光㊤

 

確かに急いではいた。
「10分ほど遅れます」
相手に連絡もしていたし、命にかかわるほど急いでいたわけでもなかったのに、目の前を赤い一筋の光がすうっと通り、それをよけようとしたら駅前の道路ですっころんだのだ。
私はおっちょこちょいだが、昔から運動神経だけはよかった。走らせれば学年で1番か2番だったし、徒手体操部だったのでバク転だってできた(今はやってないのでわからない)。今までも、なんどとなくつまずいたりはしているが、「すっころぶ」というほど自ら転んだことは一度もない。
……のに、なんの障害物もないところですっころんだのである。とにかく行かないともっと遅刻してしまう! 電車に飛び乗ってふと右腕をみると、あっちこっちに傷。そのうちじわっと血がにじみ出てきて流血しはじめた。行った先でも
「いったい、どうしたんですか?」
驚かれてしまうほどだった。その翌朝、この世でたった1人だけ「兄」と呼んで慕っていた人が、天国に行ってしまったという知らせが届いた。
仕事がなかったらシンガポールのお葬式に絶対に行っていた。知らせをきいたのが仕事に出かける直前で、行きたい、行けない、行きたい、行けないで胸が苦しくなり、ほとんど上の空で仕事をしていたけれど、棺に入れてもらうためのカードを奥さんにEMSで送ったら少しだけ落ち着いた。
そして気づいたのだ。
なぜ、昨日転んで痛い思いをして、あちこちから血を流したのか。
これが、虫の知らせというやつだったのだろう。

 

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以前、ニュージーランドで崖から墜落して死にかけたことがある。ホタルで有名なワイトモ洞窟から2時間ほどのロトルワというところでのことだ。ロトルワは火山活動がいまだに続いており、日本でいうと地獄谷のような場所。あちこちに温泉が湧き出ていて、街は地表から勢いよく湧き出る間欠泉の煙に包まれている。
ロトルワでは火山の噴火で一瞬にして消えてしまった「埋もれた村」を訪ねたかった。地図で見る限り埋もれた村はロトルワ湖のすぐ隣にあるブルーレイクの近くで、1時間ほどの距離だ。時計の針はすでに4時をさしていたが、行ってみるだけの価値はあるかもしれないと急いで車を飛ばしてみたが着いた頃には限りなく5時に近く、残念ながら門が閉まっていた。
他に行くアテがあるわけでもないので帰り際にブルーレイクの前に車を停め、外へ出てしばらく湖を眺めてみたが、降り出した雨が湖面に波紋を描きはじめたので、レインコートがわりのウィンドブレーカーを袖なしシャツの上から羽織った。
車に戻ると少し暑いような気もしたがシートベルトも締めてしまって面倒くさかったので、そのままウィンドブレーカーを脱がずに車は発車。

下り坂傾斜25度のカーブ、雨で道路が濡れはじめていた、スピードは70kmくらいだったろうか。当然といえば当然だったかもしれない。運転手はカーブでハンドルが切りきれず、車は対向車線に向かって横滑り。
「止まらない! 止まらない!」
運転手が叫ぶ声は冗談のようでもあり、笑っているようにも聞こえた。とっさにフロントガラスの向こうに目をやったが対向車はなく、助手席に座っていた私の視線はサイドブレーキに釘付けになった。
「これを引いたら停まるのだろうか……」
考えはくるくると頭の中で空回りし、カタカタと音をたてた。しかし気持ちは慌てているでもなく、想像できないほどにしんとしていた。
「道の端できっと停まる」
そう思った瞬間グラリと車体は揺れ、一瞬だが身体が宙に浮いた。後部座席に乗っていた仲間からの啜り泣きと叫び声が私の耳をつんざいた。
なぜそんな姿勢をとったのか今でも思い出せないのだが、私は足首を掴み頭を膝の間に突っ込んだ。シートベルトをしていたので実際は違った体勢だったのかもしれないが、とっさにそのポジションをとろうとしたことは確かだった。その私の目の前を赤い一筋の光がすうっと渡って行った。

車体は右側にダンダンダンとテンポ良くロールして、どこか果てのない底に落ちていくようでもあったが、そんな時に考えていたのは
「ああ、あっけなかったなぁ、私の人生ここで終わりかぁ……」
ということだけだった。出来なかったこと、まだしていないことを考えることもなかった。生きること、そして家族への執着さえもそのときはまったく無く、そんな自分にむしろ驚いた。
後部座席からの啜り泣きの声は次第に鋭くなって
「そうだよなぁ、子供をこの世に残していくのはきっと辛いだろう」
そんな気持ちがふっと心を過ぎっていった。

強い衝撃と共に車は止まった。遠くで誰かの声とラジオからの音声が聞こえる。
「ここはどこだろう? 天国ってこんなところ? 私は死んでるのかな?」
そんなことを思っていると
「みんな大丈夫かっ!」
遠くの声は運転手のようで、後部座席の2人も何か答えている。
「あぁ、どうして首が動かないんだろう? あ、折れてるのかな」
運転手が私の身体のどこかを叩き、名前を呼ばれているような気がする。
「パタパタ」
そう、確かに叩かれた感触が私の皮膚を伝わって脳へ。恐る恐る声を出してみる
「大丈夫だけど、首が動かないよ!」
声が出たことになぜか自分でびっくりし、後部座席の二人の声も急に鮮明になった。
生きているということを自覚したその途端、生への執着がどっと押しよせた。ここから出たい、まだ生きたい、まだ死にたくない……さっきまではすごく冷めた自分を遠くから見下ろしているようだったのに、人間とは不思議な生物だと思った。

目の前は真っ暗で首の動きを妨げている異物がなんであるのかわからない。何も見えないのだ。
「これが、これが!」
とにかくその物体を叩いて運転手にどけてもらうように頼んだが、返って来た答えは
「それは、無理だよ。どかすことはできない」
何を言っているのだ! 私がこれほどまでに生きようともがいているのに、どかせない物とはどんなものなのだ。睨み付けようにも首は動かずどうにもならない。
「だってそれは車体だもの」
どうやら助手席側を下にして横たわった車の側面と、地面の間に挟まれてしまったらしい。
「でも痛くはない。なぜだ?」
思考は散漫になり、目の前が暗いことも手伝ってしばらく意味もなくもがいていたが、暗いのは髪の毛が目の前にばさりと垂れているからだということに気付いた。
そう、挟まれていたのは身体ではなく、単に髪の毛だったのだ。
「助かった!」
などとホッとしている場合ではない。