ぼうけんこぞう

旅と冒険(回遊ともいう)の軌跡と映画

虫の知らせと赤い光㊦

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我にかえった私はとにかく聞こえているラジオの音を止めたかった。
電気系統の電源を切らなくては爆発、もしくは引火するかもしれないという気がしてきたのだ。言っておくが私は極端に電気や機械に弱い。通常ならばそんなことはまず考えないというのに、この時ばかりはやけに論理的な行動でもあった。
ラジオのスイッチがありそうな場所に手を伸ばすが、一向に指先には何も触らない。宙を何度か手でかきまぜてみるが、硬いものには何ひとつ遭遇しないのである。

電源が切れないとなればとにかく脱出だ。髪の毛の隙間から挟まれているあたりを観察してみるが、割れたガラスを越えて土の中に埋まっているのは、どうやら毛先ではなくポニーテールの根元。ぎゅっと引っ張ってみたがびくともしない。
「出られない……」
そう思った途端、どこからともなく嫌な諦めのようなものが沸いて来た。
「メガネがない! 靴が無い!」
反対側からすでに車の外に出ている生還者の声に、なにやらとてつもなく悲観的になっていく自分を感じた。
「いいよね、みんなは。車から脱出できて。生きていて」

違うのだ、違うのだ、自分もこうして生きているんじゃないか。自分を励ましてみたり、スネてみたりこういう場所においても私の心はこんなことをしているのである。
「車にナイフあったよなぁ」
運転手の声に私の心は慌てた。
「嫌だ、嫌だ、果物ナイフなんかで、髪の毛ざんぎりにされたら……」
身体は動かないものの気持ちだけで私はバタバタした。死にたくないと言いながらも髪の毛をナイフで切られたくないという、理解不能な思考である。その時
「あっ、シートベルト!」
身体が動かないのはシートベルトをまだしているからだということに、ようやっと気づいた。
手探りでボタンをはずしシートベルトがすうっと背後に引いていったその瞬間
「ドサリ」
重力に従って身体が車の天井に落っこちる。
「ああ、こっちが地面か」
このときはじめて、車が天地逆さまになっていることに気づいたのだ。

前よりは身体もいうことをきくので、挟まっている髪と格闘を始めるのだがやっぱり慌てているのか思うようにはいかない。
全部一気に引き抜こうとするから出ないんであって、そう!少しずつの束にすればいいのである。
「メリメリメリメリ」
数本ずつなのに、芋掘りでもしているような音がする。
「メリメリメリメリ...」
20~30分もそんなことをしていたであろうか、私にとっては2時間くらいに思える悪夢。最後にはとうとう諦めて、ダッシュボードの中の果物ナイフで抜けないところを切って車から這い出した。
その途端生きていることの嬉しさと、たまらない怖さから情けないことにしゃくりあげてしまった。
それでも愛用のカメラを入れたバッグを片手に持っていたのだから、かなり図太いのかもしれない。

車が転落した崖は25メートルほどの高さで、急な傾斜は草に覆われていた。
「とにかく車から離れないと」
崖を懸命に登るが足が思うように動かない
「情けない奴だな、登れ登れ!」
自分に言い聞かせて這いつくばっていると、そこらじゅうの濡れた草が血で赤く染まっていく。自分の出血にも気付かないくらい慌てていたのかもしれない
「どうやらあちこちから出血しているのは自分らしい」
情報の脳への伝達にも少し時間がかかった。

考えてみればウィンドブレーカーを着ていたことは、相当ダメージを緩和していたと思う。手の甲やズボンがめくれあがったところからはかなり血が滲み出ているが、その他の部分はなんとも無い。挟まったのが手や足だったらと思うとぞっとするが、髪の毛で覆われていたおかげで顔も小さなカスリ傷だけだった。

崖の上部に手を掛けると、にゅうっと伸びてきた手が私の右手を引っ張った。引き上げられてみると現地のニュージーランド人で、片手の携帯電話で警察に連絡してくれているところだった。
「あ、警察ですか? 救急車もお願いします。場所は……」
警察が到着するまでの数分の間に、それはもう数限りない車が停まってくれ
「何かしてあげられることない?」
「とりあえず私の車で休んだらどう?」
「ありがとう、でもこんなだから車をよごしちゃう」
泥だらけ、血まみれ、髪の毛から土のかたまりをぽろぽろさせている私に
「そんなのどうってことないわよ、ほらほら座って!」
ニュージーランド人はことのほか優しかった。
そのうちにパトカー、続いて救急車が着いて私は担架に乗せられ呑み込まれていった。
救急車の中では隊員が
「本当に幸運だったね、先月もあそこから転落して4人即死だったんだよ」
などと言うので、喜んでよいのやら背筋がぞっとするやらで複雑だった。

一種のショック状態だったのかもしれない、病院について医師の顔を見るなり痛くも悲しくもないのに涙がぼろぼろぼろぼろ流れ出てきて、それを自制するのが大変だった。
怪我の方は大したこともなく割れたガラスの破片が足に入っての出血だけで、手当てとレントゲンを済ませると帰っていいことになった。
帰りがけに鏡に映る自分の姿は、京都・東福寺にある「寒山拾得」もビックリ。洞穴から出てきた原始人のようでもあった。

これまでに私は3度あの赤い光を見ている。
最初は祖母の葬式の棺の中に、2度目はこのニュージーランドでの事故の時に、そして今回のすっころび。そのたびに思うのは、あの赤い光はこの世にいない”誰か”からのメッセージなんではないかということだ。

死にまつわる不思議なことが起こるたび、いつも思うことがある。
私達は「生きている」つもりかもしれないが、実は「生かされている」のだと。この世でやりとげていないことがまだあるから、だから生かされているのだ。

はっと気づき、シンガポールの兄がFacebookで私に最後に書いたメッセージを探し出した。
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Happy Days yah! 🌞🌞🌞🌷🌷☘☘😘😘
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「自分を大切にしなさい」
何度も、幾人もの友達に言われてきた。
「この世に生まれて来た意味は、幸せになるためです」
ダライ・ラマの言葉を何度もあちこちで読んだ(読まされていた?)のに、頭のカタイ私は「人を幸せにしたい」と言い続け、傷ついてボロボロになりかけている自分のことに気づかなかったのだ。人を幸せにするには、まず自分が幸せにならないと……メッセージを読みながら涙がとまらなくなった。

今回もあの赤い光は、この世で私がやりとげていないことを教えてくれたのだ。
うん、兄よ、いいつけ通り私は幸せな日々を送るよ。
だから、安らかに眠れ! アーメン。

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