ぼうけんこぞう

旅と冒険(回遊ともいう)の軌跡と映画

⑰Lさんの『夢のスチュワーデス』

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DFP・日本人

私はこの仕事が大好き。サービス業は天職だと思っている。だから年3回あるこの会社の採用試験を受けて全部失敗した時も、『試験官に見る目が無かったんだ』と思ってさらに数回トライして合格した。

5年近く掛かってBC、DBC、DFPを経てEYパーサーに登りつめたある日のこと、私は2階席のビジネスクラスを担当していた。2階席には私と、DBC1人に紺服が1人。乗客がシートベルトをしているか、椅子の背を元に戻したかを二人がチェックしている間に、私はギャレーの中がきちんと片付いているか、フードカートの扉が閉まり、きちんと固定されているかを確認していた。 ギャレーの電気を消し、紺服に報告して席に着きシートベルトを閉める。横で紺服が『二階席着陸準備整いました』とチーフパーサーに電話をしている。EYパーサーとなれば中堅、SPだって信用してくれているから、もう一度確認に行く人は少ない。

飛行機は最終着陸体勢で機首が下がって行く。窓からは空港のまわりの景色が見えて来た。 とその時、ものすごい音と共にフードカートと同じサイズのごみ箱がギャレーから滑り出て来るのが見え、数秒後には私の横を通り過ぎた。私は目を疑った。2階席は廊下1本、ごみ箱が行き着く先は操縦席だ。轟音と共にごみ箱は操縦席のドアにぶつかり、運悪く半開きだったドアを押して中に突っ込んだ。 私たちも驚いたけど、びっくり仰天したのは中のコックピット・クルー達だったと思う。乗員乗客全てが着席しているはずの、着陸寸前の最も緊張している瞬間にドアを開けて侵入して来たのがごみ箱とは。

この事件の後、私達3人はコーディネーターから呼び出しをくらった。仕事に遅刻したとか、本来乗務前日までに香港に帰っていなくてはいけないのに、当日帰って来たのが見付かったとかいっては、このコーディネーターに呼び出されて、お説教されたり罰を与えられたりするらしいが、素行不良とはまったく縁のない私には初めての体験だった。 コーディネーターは私達3人それぞれから事情を聞く。DBCはギャレーに関しても責任が無く、最後に確認するはずの私達管理職を残して無罪放免。DBCはとにかく雑用ばかりで、いわば奴隷のようにこき使われるが、こういう時に責任が無いのは一種の特権かもしれない。 2人の処分についてはコーディネータだけでは決め兼ねるらしく、その上の課長級の人達まで出てきて散々論議していた。何時間も待たされたあげく、私達に言い渡されたのは『自主退社、もしくは解雇』であった。

運が悪かったとしか言いようがない。ごみ箱の固定が悪く、ギャレーから走り出る事件がこれまでにも何度か起こり、会社から特別に『しっかり固定すること』と言う通達が出ていたその矢先だった。 走り出るといっても、操縦席まで行き着くことは今までになく、走り出るような位置のごみ箱が、奇しくもしっかりと金具で留まっていなかったにすぎない。

SPはもう10年以上もこの会社で働いている。初めは日本円にして10万円足らずだった給料も、10年経てばかなりの額になり、出身のマレーシアに帰って同じ額の給料を得るのは、相当難しい。 私だってこの仕事が好きで好きでたまらないし、小さい頃からの夢だった。そうそう簡単に解雇されてはたまらない。

そこで私達2人はそのまた上の部長級の人に掛け合うことにした。討議の末に出された答えは『1年間の降格』である。SPはEYパーサーに、私はDBCに引き戻された。EYパーサーの下は、ファーストクラスパーサーではないかと思うかもしれない。しかし同じパーサーなので、一段下はDBCになる。SPは降格によって制服の色も紺から赤に戻された。かくして私は、入社9ヶ月目のクルーと同じ仕事をすることになった。

顔見知りのDBC達はそれなりの敬意を払ってくれるし、知り合いでなくてもクルーの間を流れる噂からか、特別な対応をしてくれる時はまだいい。右も左も分からない新米ほど私のことを知らないので、18歳そこそこの子に、馴れなれしく話しかけられたりすると、あまりいい気分はしない。 でもいいんだ。1年経てばEYパーサーに戻れる。私のことを知らずに馴れなれしくしていた新米達にも、目にモノ見せてやることも出来る。

ちょっとくらい嫌な思いをしたって構わない。小さい頃からの夢が実現した今、この仕事にかかわっているだけでも幸せだ。 とにかく私はスチュワーデスという仕事が大好きなんだから。