ぼうけんこぞう

旅と冒険(回遊ともいう)の軌跡と映画

⑱Mさんの『親知らずと火災報知器』

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DFP・日本人
会社の歯科医で歯を抜いた。ことの起こりはこれである。 あまりに歯が痛いので会社の建物の中にある歯科へ行くと、親知らずだと診断された。ちょううど翌日が休みだったので、抜いてもらって家に帰った。その時は麻酔も効いていたので分からなかったが、翌朝になって麻酔が切れると、抜歯の痛みとは違う前日と同じ痛みが戻って来た。 鏡の前で大きく口を開けて見てみると、どうやらくだんの親知らずは抜いてあるが、痛みは1本手前の歯からである。急いで昨日の歯科医に電話するが、休日の為もあってか『薬局で痛み止めを買って飲んでおけばいい』という投げやりな対応。 そういう問題ではないと、怒り心頭に発して会社に歯科医を呼び出した。誤診に休日も祭日もない。しぶしぶやってきた歯科医は、少しだけ歯をほじくり返したが、今日は助手がいないので治療は出来ないと肩をすくめ。あげくのはてには休日診療手当を要求。 脳天に突き上げる痛みに涙ぐみながら、一旦家に帰ったがこんなに歯が痛くては乗務どころではない。会社に電話して翌日の仕事をキャンセルしてもらい、事情を説明して日本のかかりつけの歯科医へ行くことにした。 痛くもない歯を抜かれた末に、こんな対処の仕方ではかなわない。3日の休みを給料から差し引かれるかたちでもらい、すぐ日本へ戻って歯科医に駆け込んだ。日本でも1本、本当の虫歯を抜いたので、3日間に2本も歯を抜いたことになる。 まだ痛みもあり顔も腫れていたが、貰った休みの最後の日に、歯科医のくれた消毒用の薬と痛み止めを持って、いったん香港に戻る。飛行機に乗ると気圧が変わり、抜歯の済んでいない歯はきりきりと痛み出す。

乗務の当日、まだ腫れも引かず痛みもひどいので、仕事は出来ないと会社の歯科医に訴えたが、『大丈夫だから乗務しなさい』と譲らないので、しぶしぶフライトに出る。歯科医、医師の許可なしに乗務をキャンセルすることは出来ないからだ。 こうなれば大量の痛み止めに頼るほかないが、この薬がまるで麻薬のようで、効いている時はいいが効き目が切れると、やりかけの仕事を放り出したくなるほど痛くなる。 忙しい仕事の合間をぬって、何度もお湯でとかした消毒用の薬で口の中を洗浄して、薬を飲んだ。満席だった事も手伝って、へとへとに疲れて目的地のバーレーンへ真夜中過ぎに着く頃には、痛みもかなりひどくなっていた。 痛み止めの薬は身体をだるくさせ、ホテルのバスに乗り込むと同時に眠り込み、他のクルーに起こされるまで車が停まったことにも気づかないありさまだった。 ホテルの部屋に入るとすぐベッドに倒れ込んで寝てしまいたかったが、消毒と薬を忘れては真夜中に痛みで目が覚めてしまう。 ホテルの部屋に湯沸かし器がないのは知っていた。滞在中、毎2、3時間おきにルームサービスでお湯を頼むのも気が引けたので、自分で持って来た湯沸かし器をコンセントに差し込み、お湯が沸く間にさっとシャワーを浴びる。 浴室から出てきてお湯の具合を確かめると、コンセントの接続が悪かったのか、うんともすんとも言わない。もういちど差し込み直して床にへたりこんだ。こうしてお湯が沸くのを待っている数分間も、だるくて辛かった。

部屋のドアをダンダンと叩く音で目が覚めた。 知らないうちに眠りこんでしまったらしい。気が付くとホテルの従業員が部屋に飛び込んで来た。見ると部屋の天井の火災報知器がピーという音をたてていた。湯沸かし器の水が全部蒸発して、風呂のから炊きのようになってしまったらしい。急いで起き上がってコンセントを抜く。従業員が『どうしました?』と聞くのでお湯を沸かしていた旨を説明する。 音も数分後にはおさまった。なんだそんなことか、というような顔で従業員は扉を閉めて出て行った。ホテルの火災報知器を作動させてしまった、私にとってもそんなことだったのだ。 翌日、何か弁償するものがあれば言って欲しいと申し出たが、ホテルのマネージャーは片手を振るだけだった。

ところが香港に戻って来ると、コーディネーターではなく、課長から呼び出された。 言い渡されたのは『自主退社、もしくは解雇』であった。理由は、危険物をホテルの室内に持ち込んだからだという。 『ホテルの室内で料理をしてはいけない』というのは知っている。危険物といったって私が使った湯沸かし器は、欧米のどこのホテルにも備え付けてあるタイプのもので、特別特殊というわけではないし、ましてや料理をしたわけでもなく、お湯を沸かしただけである。 ところが『これは会社の規則で使ってはいけないことになっている』というのが会社の言い分であった。不思議なものである。前にイギリスのホテルの部屋で野ウサギを締めて、料理したクルーがいたというので問題になったことがあるが、別段とがめられた形跡はない。とすれば、ウサギは熱を加えずに刺身にでもしたのであろうか?

労働組合にもかけあったが、『何もしてあげられない』という返事で、何のために毎月組合費を払っていたのか分からなくなる。 前払いしていた入会費を退会の際に払い戻す、という約束だったので申し入れたが、ストライキの時に使ってしまったから、返せないという返答。 こうなれば他に選択の余地はないので、自主退社ということになった。 4年働いてエコノミー、ビジネス、ファーストと全3クラスで働いたし、退職金も支払われた。 当時ファーストクラスを各機体から減らしていく会社の方針だったし、パーサーになると役職手当もついて人件費もかさむ。需要も減っているので、ファーストクラスパーサーの人員整理の一貫だったのだろう。 何人かの知り合いによれば、もっと上の部長級の人に訴え出れば、降格なり減給なりで会社に残る方法はあったらしい。 でも今さらDBCに戻って、肩身の狭い思いをするほどのこともないし、1997年の中国への返還を前に、潮時だったのだろうと思った。