ぼうけんこぞう

旅と冒険(回遊ともいう)の軌跡と映画

Parched

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ヒンディー映画「Parched」(2015)

配役:

Rani役:Tannishtha Chatterjee
Lajjo役:Radhika Apte
Bijli役:Surveen Chawla
神秘的な恋人役:Adil Hussain 
Kishan役:Sumeet Vyas 
Janki(Gulabの新妻)役:Lehar Khan
Gulab( Ranの息子)役:Riddhi Sen 
Champa役:Sayani Gupta

  


BHOOKAMP Video Song | PARCHED | Radhika Apte, Tannishtha Chatterjee, Adil Hussain | T-Series

ネタバレしない程度のあらすじ:

Ujhaasという砂漠の農村に暮らす ごく普通のRaniと LajjoとBijli、Janki の4人の女性が、幼児婚、ダウリー(持参金)、嫁ぎ先家族からのレイプ、ドメスティックバイオレンス、肉体的・心理的虐待が普通にまかり通る、伝統的で封建的な社会における奴隷同然の暮らしから自由になるという物語。

寝たきりの姑と十代の息子Gulab (リディ・セン). をかかえる未亡人Rani (タニッシュタ・チャッタルジー) は、村の習慣に沿って息子に幼子の嫁を迎えるため家を抵当に入れて借りた大金を新婦の家族に支払った。当のGulabはといえば、反抗的で悪い仲間たちとぶらぶらしたり娼館に入り浸ったりしてばかりでちっともいうことをきかない。幼な妻Janki (レアール・カーン)は結婚が嫌で、結婚を台無しにしようと自ら髪を散切りにするもヴェールで隠して無理矢理Raniの家へ連れてこられた。

Lajjo (ラディカ・アプテ)はRaniと同じ村に住む親友でRaniの葛藤を見守り、精神的に支えている。そのLajjoはといえばなかなか子供を授からないことから嫁ぎ先家族や村社会から役立たずの誹りを受け、酒癖の悪い夫からは暴力をふるわれていた。

RaniとLajjoの親友でもありよくアドバイザーでもあるBijli (サービーン・チャウラ)は、年に一度Raniの村へ回ってくる移動式興行のお色気ダンサーで、その色気で村の男たちを引きつけては売春も行う。


KACHHUVA Video Song | PARCHED | Radhika Apte, Tannishtha Chatterjee, Adil Hussain | T-Series

 

映画はRaniとLajjoがJankiの家のある村を訪ね、ダウリーの額を決めるところからはじまる。Jankiの家でRaniの携帯電話に間違い電話がかかってきて、掛け間違えた相手が自分はシャー・ルク・カーンだと冗談を言うが、テレビがない村に住むRaniはシャー・ルク・カーンが誰なのかも理解できない。この偽シャー・ルク・カーンはこのあと、しつこく電話をしてきてRaniを口説くようになる。最初は男性にチヤホヤされることに幸せを感じたRaniだったが自分が未亡人であると相手に知らせることで電話も途絶え、小さな幸せは消えていった。

 村での決めごとは長老会議にて判断が下される。
嫁ぎ先家族の男性達からレイプされ続け、逃げ出して実家に戻ってきたChampa (サヤニ・グプタ) には嫁ぎ先へ戻るように強制。Kishan(サミート・ビャス)が妻とともにこの判断に異議を申し立てるも
「長老にたてつくな」
と一笑に付され、進んだ考え方やマニプール出身の教育を受け働く女性を娶ったことなどを逆に非難されてしまう。

起業家であるKishanは村の女性たちを雇って手工業品を生産するというビジネスをはじめていた。RaniもLajjoも村の他の女性たちとともにKishanのもとで一生懸命働き、お金を稼ぐようになっていた。
暇をもてあます女性達のために、また男性達の娼館通いにストップをかけるためにも村に衛星テレビのためのパラボラアンテナを設置したいと村の女性から声があがっていた。「テレビからの自由なイメージが村の女性達を腐敗させる」だの「予算がない」だのと長老会議で却下されていたのだが、せっせとお金を貯めた女性達が資金面でのハードルを飛び越えてしまったため、しかたなしなし許可されることに。
こういった流れをよく思わないGulabやその仲間を含む村のゴロツキ達は女性の自立を促すKishanに嫌がらせをするようになる。

Gulabは荒れてJankiに暴力をふるうようになり、隣町の娼館通いで莫大な借金を作ったために誘拐されたGulabを、Raniは結婚の時にもらった貴金属を売り払い、Kishanから給料の前借りをして救い出す。
Gulabの放蕩は加速。Kishanの扱う商品を壊し、果てはKishanを半殺しにしてKishan夫婦はとうとう村から出て行ってしまった。Gulabも「男がいなければ女になにができるか見てやろう」などと言って、家を出ていってしまった。
借金の利子が払えなくなったRaniは家を売り払って借金を返し、Jankiをこの結婚から解放。Jankiのことを昔から好きだったという男性に預け、学業を続けさせることに。

村の男たちが入れ代わり立ち代わり身体を求めに来て、お客を断ることが多くなったBijliにいらついたボスは、ずっと若い女の子を雇い入れ、彼女の座を譲らせようとする。
イライラしたBijliはボスの車を持ち出して、RaniとLajjoとJankiを乗せて近くの砦で4人は大いに語り合う。そして、Lajjoの不妊の原因はLajjoではなく夫ではないかという話になり、ある実験を試みる。実験の甲斐あってLajjoは懐妊。しかし、夫の暴力は皮肉なことにこの妊娠によってさらにエスカレート。止めに入ったRaniと三人がもみ合うウチに、夫が火の中に倒れ込む。「ダサラ」と呼ばれる悪を倒して正が勝つ祭の夜のことだった。

 

 小僧的視点:

この映画、あらすじだとものすごくドロドロしているのだけれど、舞台が題名の通り「カラっとした」砂漠のせいなのか、RaniにしてもLajjoにしてもラジャスタン人特有の明るさがあるせいなのか、あまり凄惨さを感じない。
それよりも、今までインドで感じてきたいろんな疑問がほどけていく映画であった。

まず初手からつまずいたのはダウリーのこと。
ダウリーとはいわゆる持参金で娘が結婚する時に、親が花婿側へ持参金や家財道具を贈るという慣習。花嫁側にとっては大きな経済的負担で、ダウリーのために莫大な借金を抱える場合多い。夫の家の要求は結婚後も続くこともあり、女性側の実家がこれを断ると、嫁ぎ先の家族から冷酷な扱いを受けたり、料理をしていた嫁のサリーに火が燃え移ったりする”事故”が起きたりする。夫の家から要求された額を払うことができず、花嫁やその一家が自殺をするケースも毎年6000~7000件も起きている。
ダウリーは裁判所で扱われるべき、保釈の認められない犯罪で、差し出すことも受け取ることも禁止と法律で定められているのだが、ビハール、ウッタル・プラデッシュ、ラジャスタン、ハリアナといった北部ヒンズー語地域には今もなお根強く残っている。

Raniがダウリーの額を相手の家族から吊り上げられていたので
「ああ、娘を嫁がせるお母さんなんだな」
と理解していたのに、Raniには息子しかいなくて「なぜ男性側が女性側にダウリーを払う?」と混乱した。
近年、男性に未婚の姉妹がいないと結婚相手として不適格として女性側の家族から結婚の申し込みを断られる傾向が高まっていて、そのためダウリーでカバーするといったことが行われている。これは男女比が拡大しているラジャスタン独特のもので、新郎の家族に未婚の姉妹がいれば、将来新婦の親戚にいる男性との縁組が可能になるからなのだとか。
「お兄ちゃんが結婚するまで、私は嫁に行けない」だの言っているのを聞いて、インドは結婚も年功序列かと思っていたのだが、「弟がお嫁さん貰ってくれないから、私がなかなか嫁に行けない」とかいっている友達がいてわけがわからなくなっていた。どうやら、コレがその理由だったようだ。

冒頭、RaniがLajjoとバスに乗ってJankiの家がある村を訪ねるシーンを観ただけで
「ああ、Raniは未亡人かな?」
と思ってしまうのは、Raniが黒い服を着ているからだ。モスリムのアバヤでもない限り、ラジャスタンのヒンドゥー系の女性がカラフルな色を着ていない場合は田舎の村の未亡人のことが多い。
Dor」でも少し書いたけれど、不吉な存在とされる未亡人には誰も触れようとせず、伝統的に未亡人は一切の装飾品を身に着けてはならず、いわゆる世俗的な楽しみごとから隔離された生活を一生強いられる。
紀元2世紀までに成立した、ヒンドゥー教徒の行動を規定した「マヌ法典」の一節に「幼き時は父に、嫁しては夫に、老いては息子に従うべし。げに女の自立はなしがたし」とあるように、ヒンドゥー教における女性は潜在的に危険な力を有すると信じられていて、マヌ法典でも女性は生涯、男性に従属すべきだと説かれている。
夫を亡くした女性は従属する男性不在で、社会的に日陰者として生きていくことになるので、「サティー」と呼ばれる夫の遺体とともに生きたまま火葬される寡婦殉死の風習が生まれたのだともきく。

ひとりでバスから降りて来たマニプール出身で顔つきもミャンマー人っぽいKishanの妻を、バス停でたむろっていたGulabとその仲間たちが「女が1人でバスに乗るなんて間違っている」といって絡んでくるのも、こういった考えが根底にある。
Jankiの家に行くのにRaniをひとりで行かせずLajjoがついていっているのも「女ひとりでバスに乗っていない」ことになる。私はよく「ひとりにさせてくれないインド」という言い方をするが、友達がいる田舎では
「もう、絶対迷わないから、君んちまでひとりで行ける!」
といっても、いつも家族の誰かか友達の友達がホテルまで迎えに来て、家からホテルまでも送ってくれるのは、この考えがどこかにあるからなのだと今更ながら気づいたのである。

既婚女性のうち37.2%が夫からの暴力を受けたことがあるというインド政府の調査結果もある。ただ、離婚はヒンズー教では禁じられており、基本的にはない。
農村部では夫と死別したり、何らかの理由で離婚した女性に対して、同じ村の仲介人が再婚相手を紹介する「ナタ」と呼ばれる慣習はある。ナタでは新しく夫になる男性が、女性の前夫や実父にお金を払わなければならない。普通は女性側からダウリー(持参金)を貰うのに、わざわざ男性側がお金を払うとなるとハードルの高さは尋常ではなくなるだろう。
間違い電話の相手にも自分が未亡人であるという本当のことを言えば、かけてこなくなるだろうという考えにもこれで合点がいく。ただ、間違い電話の相手がラジャスタン人、ヒンドゥー教徒とは限らないのである。

「32歳になって最近は白髪が増えてきて、視力も弱くなってきた」
という台詞があって17歳の息子がいるのだから、本人もJankiと同じ14歳くらいで嫁いできたのだろう。「勉強をしたり本を読んだりするのは悪い嫁」といってJankiから本を取り上げる伝統的慣習が染みついているかのように見えるRaniだが、こういわれて育てられて今があるのだからその殻を破るのは簡単なことではないだろう。
そのRaniの台詞でもうひとつ印象に残るものがあった。

「さぶ くち てぃーこ じゃえが(सब कुछ ठीक हो जाएगा )」
英語になおすとEverything will be alright(きっとうまくいく) だ。

夫が暴力を振るっても姑はRaniに「さぶ くち てぃーこ じゃえが」、夫が他に女をつくっても姑はRaniに「さぶ くち てぃーこ じゃえが」、しまいには事故で夫が亡くなっても姑はRaniに「さぶ くち てぃーこ じゃえが」と言い、息子が嫁をとるその日Raniは姑に
「今日からは私がさぶ くち てぃーこ じゃえが っていう番よね」
と言うシーン。

この 「さぶ くち てぃーこ じゃえが(सब कुछ ठीक हो जाएगा )」、ラジャスタン人は本当によくクチにするのである。
「んなわけないだろ!」
思わず言い返したくなる、まったく大丈夫じゃない場面で。
あまりものを深く考えないというか、シリアスにとらないというか……だからこそ現代に至るまで綿々とこういった慣習の殻を破ることなく来ているのかもしれないけれど。 

以前、友人関係の悩み事があってラジャスタンの友人に聞いてもらったことがある。
「そうか、そうか。そうだったのか。」
話を延々ときちんときいてくれた友人が、私の悩みに対してしてくれたアドヴァイスが

「だったら……踊りなよ! そうすればきっとうまくいくよ」
であった。
あー、ダメだこりゃ。カンペキに相談する相手を間違えた……と思ったのも確かだが、なんでもシリアスに考え込む癖のある私には、
「そんなに深く考えずに楽しく生きないと!」
というのは、ある意味的確なアドヴァイスだったのかもしれないと思わなくもない。

 

ロケ地
 Jaisalmer Sand dune (Rajasthan)

Ujhaasという砂漠の農村はここ。
砂嵐の中での撮影はさぞかし大変だったろう。 


Behind The Scenes | Sandstorm In Jaisalmer | Parched

 

ロケ地
 Jodhpur (Rajasthan)

  砂漠のシーンはここで撮られている。 

 

ロケ地
Naida Caves  (Diu, Gujarat)

神秘的な恋人との”実験”シーンはここで撮影された。


Mai Ri Mai Video Song | Parched | Radhika Apte, Tannishtha Chatterjee, Adil Hussain | T-Series

 


Naida Caves, Diu India

 
この映画が観られるサイト:

Parched (2016) Full Movie HD Online Free with Subtitles

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