ぼうけんこぞう

旅と冒険(回遊ともいう)の軌跡と映画

横須賀③おりょうさん

 米が浜通りを歩いていたら、日本髪を結った女性の胸像を発見。しかも後ろ向き。見つめているのはメモリアルホール、いわば葬儀屋さんの玄関口。

誰? アンタ? である。回り込んで正面からみてみると

おりょうさんの胸像#tripjapan #yokosuka #sakamotoryoma@prilaga #natgeo #solo #lonelyplanet #vacation #traveling #travel #tourism #instatravel #trip #visiting #travelgram #ocean #mytravelgram #holiday #prilaga #travelling #arountheworld #solotravel #nationalgeographic #onedestination #tourist #travelingram #igtravel #instapassport #instagood #water #instatraveling (Instagram)

こんな感じ。建物には「おりょう会館」と書いてあった。
おりょう? ってあの坂本龍馬の?!
周囲をウロウロしてみたら、こんな碑が。

路傍にこんな碑を発見#tripjapan #yokosuka #sakamotoryoma@prilaga #natgeo #solo #lonelyplanet #vacation #traveling #travel #tourism #instatravel #trip #visiting #travelgram #ocean #mytravelgram #holiday #prilaga #travelling #arountheworld #solotravel #nationalgeographic #onedestination #tourist #travelingram #igtravel #instapassport #instagood #water #instatraveling (Instagram)

坂本龍馬の妻・おりょうさんが1906年(明治39年)11月15日に66歳で亡くなったのは、海軍病院の塀に沿った奥まった路地を入った左手の一棟二戸建ての貧乏長屋だったときいたことがある。
海軍病院は、今の横須賀共済病院なのでまさしくこのあたりだ。
胸像の写真は逆光でよく顔が見えないけれど、

おりょう会館入口にある展示物#tripjapan #yokosuka #sakamotoryoma@prilaga #natgeo #solo #lonelyplanet #vacation #traveling #travel #tourism #instatravel #trip #visiting #travelgram #ocean #mytravelgram #holiday #prilaga #travelling #arountheworld #solotravel #nationalgeographic #onedestination #tourist #travelingram #igtravel #instapassport #instagood #water #instatraveling (Instagram)メモリアルホールの入口入ったところにある「坂本龍馬おりょうさんを偲ぶ」とめいうった小さな展示コーナーがあり

おりょう会館入口にある展示物の中に、艶っぽいおりょうさんが描かれた手ぬぐい発見#tripjapan #yokosuka #sakamotoryoma@prilaga #natgeo #solo #lonelyplanet #vacation #traveling #travel #tourism #instatravel #trip #visiting #travelgram #ocean #mytravelgram #holiday #prilaga #travelling #arountheworld #solotravel #nationalgeographic #onedestination #tourist #travelingram #igtravel #instapassport #instagood #water #instatraveling (Instagram)

展示物の中におりょうさんの似顔絵だと思われる手ぬぐいやら写真があって、なかなかのいい女っぷりであった。

なんでおりょうさんがここ横須賀で亡くなったのかといえば、横須賀に居を構える人と再婚したからだ。
1867年11月15日に龍馬が暗殺された翌年の1868年(慶応4年)、27歳のおりょうさんは下関から長崎経由で土佐へ、その後京へ行き、明治6年10月にはなんと単身東京へ出てきて築地に住んでいた。かと思うと明治7年には江戸時代から続く神奈川宿の高級料亭「田中家」で、仲居さんとして働いていたという記録がある。
とにかく頭のキレる粋な人で英語やフランス語も操り、お酒もよく飲み、人情深くてきっぷが良く、海外事情には詳しいわ、話題も豊富で客あしらいもうまく、当時無数にいた仲居さんの中でもおりょうさんは別格だったようだ。

1875年(明治8年)7月、義弟の口利きにより、寺田屋時代から旧知の仲だったという京都の大きな呉服屋の若旦那で、当時は横須賀で大道商人(今でいうテキ屋のような)をしていた5歳年下の西村松兵衛と35歳で再婚。後は、西村ツルと名前を変えている。
なんでおりょう会館が葬儀屋? と思いはするが、西村松兵衛はのちに葬具屋さんをしていたらしいので、まるでかけ離れてもいない。

どうして貧乏長屋にひとりで中気(脳血管障害の発作後、後遺症として半身不随などの運動麻痺を残した状態)を患って住んでいたのか。これは、松兵衛が健在なのにおりょうさんの墓碑に「西村ツル」ではなく、「贈正四位阪本龍馬之妻龍子」と刻まれていること、施主が夫ではなく実の妹・光枝だということにヒントがあった。
実は、早くに夫を亡くし、長い間おりょうさんが面倒を見てきた実の妹は、おりょうさんの再婚相手の松兵衛と手を携えて別居していたのだ。
内縁の妻は、正妻の墓に松兵衛の妻とは刻みたくなかったのだろう。

1841年、京都の医者の娘として生まれたおりょうさん。
もともと頭が良かったとしても不思議はないけれど、あの時代にどうやって英語やフランス語を身につけたのかというのがとても不思議だ。

当時、英語やフランス語が日本に入ったのは唐通事と呼ばれる中国語通訳を通して。唐通事は長崎や琉球王国、そして薩摩藩にも置かれていたというから、このあたりからなんではないかと想像はできる。

今回、横須賀で回遊したところを成城石井も含めて、マッピングしてみた。
誰も私の足跡など辿らないと思うが……。