ぼうけんこぞう

旅と冒険(回遊ともいう)の軌跡と映画

乾爸⑭ 韶山

韶山翌日は湘潭の西駅から、国営のバスで韶山へ向かう。昨日、私が乗ったのは私営のバス。国営のバスは時間通りに出発するし、相変わらず乗客はスパスパ煙草を吸うものの……とりあえず車内にガソリンの入ったタンクを積んでいることもなさそうだった。 1時間半くらいで韶山へ着いたのだが、ここからまた韶山村へのバスに乗り換える。 湖南というか湘潭や韶山あたりの方言なのだろうか。言葉の最後に 「でーー」 というのがつく。昆明では 「がーー」 だったのが対照的で面白い。 「さおさんでーー、さおさんでーー」 呼び込むバスには「駅から韶山村まで1.5元」と大書してあるのだけれど、ローカルの人達には違う料金が設定してあるのだろうか。乗客達はみんな1元しか払っていない。

それでも 「村までいくら?」 と聞けば 「1.5元」 という返事が車掌から返って来る。 着いてみれば韶山村は全然村っぽくないのである。道はすべて舗装されているし、賓館はにょきにょき建っているし……毛沢東の金色の銅像も広場に立ちはだかっている。村というより町っぽく、人の匂いを社会主義共産主義が塗りこめている。 ふと、行ったこともない北朝鮮というのは、こんな感じなのではないだろうかと思ってしまった。 駅でバスを乗りかえる時に声を掛けられたお姉さんが営んでいるというレストランに荷物を預け、傘を借りて毛沢東記念館を見てまわる。

なんでも文化大革命の頃はざくざく人が来たとかで、まったく同じ展示が記念館の二つの棟にあったらしい。現在はそれほど沢山の人が訪れるわけでもないので、片方だけが公開されている。 英語の表示はまったくないので、写真を見たり簡体字の中国語を読んだりするのだが、よく分かったことは 「毛沢東は中国じゅうを歩き回って社会主義を説き、革命に命を捧げました」 ということである。

弟や妹、従兄弟達もみな「戦いにて勇敢な死を遂げた」と説明されている。毛沢東には江青の前にもうひとりの妻が居たのだが、その妻との間に生まれた子供さえも「戦いにて勇敢な死を遂げた」ということで失っている。80歳近くまで生きた毛沢東が一番長生きだったということになろう。

毛沢東がカリスマ的な存在であったことは確かなのだが、私には今でもよく分からない。 中国における社会主義とは成功したのだろうか? 中国では「解放」という言葉をよく聞くのだが、これはいったい何からの解放なのであろう。農民や労働階級の人々にとっては、地主などの封建制度からの解放であったのだろう。農地を均等に与えられて暮らしは前よりも良くなったのかもしれない。

では、地主や資産家などはいったい何からどう解放されたというのだろう? 「人々はみな平等であるから、金持ちであることは罪である」 地主達は資産から解放されたのであろうか? それでは鄧小平の「経済解放政策」とはいったい何なのであろうか?  働いたら働いただけ富めるということは、資本主義の前提ではないのだろうか?  もしあの時、毛沢東マルクス主義を国中に広めなかったら、0に戻さなかったらどうなっていたのであろうか?  国民党がそのまま中国大陸に留まり、中華民国をそのまま続けていたらどうなったのであろうか?  これだけの資源を持つ中国は、今よりもっと富める国になっていたのではないのだろうか。

歴史に「もしも」が無いことは、よく分かっているのだけれど……私は毛沢東記念館を見てそんなことをどうしても考えてしまう。 さて、見たかったのは毛沢東の生家である。

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毛沢東が生まれた家

記念館から400メートルほど駅の方に戻ったところにあり、「毛沢東主席が泳いだ池」というのが家の前にある。 一度は国民党に破壊されたのだが、その後復元されたのだと説明にはあった。

記念館も毛家代々の寺も入場料を取られるのに、ここだけはなぜかタダで入れるのが面白い。 家は泥と草で塗り固められた壁に囲まれていて、台所、牛舎、豚小屋、農作業場、寝室がいくつもあり、乾爸の近所の家々を見てきた私の目には非常にお金持ちの農民の家に映った。 「毛沢東の寝室」「兄の寝室」「毛沢東主席がここで家事の手伝いをした場所」「毛沢東主席が農作業を手伝った場所」と説明書きがついているのだが、私にとってはそんなことはどうでもいいのである。

私が考えたのはこれが100年前の家を本当に復元したものなのか? ということ。 毛沢東が生まれたのは1893年だから、この家は約100年前の農家をモデルにされているはずである。

しかし、私が貴州で訪ねた乾爸の家は……この100年前の農家と何ひとつ違わなかった。勿論「毛沢東主席」であるから、100年前の農家にしては豪華に「復元」されていることはあるだろう。

しかし、それにしても、まったく同じスタイルの台所とトイレが今もなお当たり前に貴州や雲南に存在していることに、私は何か煮え切らないものを感じてしまう。

「もしも……」
時を巻き戻すことなど無理だと分かってはいても、この言葉は私の胸の中を行ったり来たりする。 乾爸は今頃、どうしているだろうか……。

こんな風に、ことあるごとに乾爸のことを考え続ける自分が不思議だった。家まで送っていってくれと頼まれたのだから、それを遂行した帰り道の今、ホッと肩の荷をおろしてしかるべきなのに。それでもまだ乾爸のことを考えては、思い悩んでいる。

旅にしろ人生にしろ、人と出会って別れて、人というものは目に見えない何かをお互いに残しあっていくものなのかもしれない。 乾爸とはもう一生会うこともないけれど、乾爸という老兵士は私に「家族とは何なのか」「歴史に揉まれながらも生きていくというのはどういうことのなのか」、考えるきっかけを置いていってくれたように思う。

私は乾爸の心の中に、いったい何を残せたというのだろう……。 毛沢東の生家を出た私は、掻き曇った灰色の空を見上げて思うのだった。