ぼうけんこぞう

旅と冒険(回遊ともいう)の軌跡と映画

乾爸⑩ 依存体質

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まったく反省の色の見えない次男ではあるが、彼が博打に走ったのは失恋がきっかけだったらしい。結婚しようと思っていた彼女が
「どうしても大学へ進みたいが学費が足りない」
と次男に泣きつき、次男は乾爸に「将来の嫁のため」と学費の援助をせがんだのだ。しかし、高卒の次男は大学卒のガールフレンドにあっけなくフラれてしまう。借りた学費を返すそぶりもなく、今では連絡さえもつかなくなったのだという。
こうなると、なにがなんだかもう無茶苦茶である。書いている私でさえ頭がこんがらがって来た。ここでもう一度、乾爸が彼らのためにしたことというのを列挙してみる。

  1. 家を建てた
  2. 長男に車を買った
  3. 長男にお嫁さんを貰うための結納金を出した
  4. 次男に店を作った
  5. 次男のガールフレンドが大学へ行くための学費を出した。

随分と色々なことにお金を使っているのにはただただ驚いてしまうのだが、この一家が乾爸にべったりと依存して暮らしているのは明らかであろう。
乾爸はこれから中国の永住許可証を申請し、それが認められれば、退職金の一括払いを台湾の政府から受けることになる。
国民党の退役軍人は、年金として一年に25五万元あまりの台湾元を生涯支給されることになっている。年金の受け取りというのは、当人がみずから出向かないといけないという決まりがある。年金を毎年受け取り続けようとするのなら、乾爸はこれからも永遠に貴州と台湾を行ったり来たりしなくてはならい。
しかし、定住して一括で支払いを受けるとなると、約2年分の50万元を貰うだけですべて終わりである。
家族のこんな様子を目の当たりにし、甥達のことを聞かされた私には、お金を全部大陸へ持ち込む乾爸にどうしても不安を感じてしまう。お金のあるうちは良いけれど、お金が底をついた時、彼らは乾爸をどう扱うのだろうか?
香港のあの老人のように、むしるだけむしられたらそこで捨てられてしまうのではないのだろうか?
紙やすりで身体全体をざらざらとこすられる、そんな嫌な感じは私の心からいつまでも消えて行かなかった。

17歳でいきなり国民党の軍人にされ、50年以上の年月を家族もなくたった一人で暮らして来た乾爸は、台湾から大陸への『親戚探し』が解禁になった1987年、ここ貴州へ向かった。
記憶の糸をたぐりながら、自分がもと住んでいた場所をなんとか探し当てた。両親も姉達も、すぐ下の弟もすでに他界していたが、一番下の弟と妻、その二人の息子は場所を移ることなくもとの場所に住んでいた。乾爸が彼らを捜し当てた時、彼らはすでに餓死寸前で、食べ物はまったく家になく……死を待つのみというような悲惨な状態であったという。
50年も経って訪れた自分の家が昔と何ひとつ変わらないことと、自分の家族が飢えて死にかけていることに乾爸は少なからずショックを受けたという。
自分はすでに台湾に小さいけれども家を持ち、豚などのいない水洗トイレが家にあり、1人の老人がつつましく暮らしていくには充分な年金もあった。
台湾で受け取る年金を食事を切り詰めてまで溜め込み、行ったり来たりを重ねるようになった。弟の家族を貧乏のどん底から救い、ここまで生活を立て直したつもりだったのに……。
結局、乾爸に依存する状況を作っただけのことだったのだろうか?
胸のあたりがきゅっと締めつけられるように苦しかった。

国民党が台湾へ渡った当時
「3年で戻れるので、みな準備をしておくように」
と言われたのだという。しかし3年は10年になり、10年は50年になった。
家族と離れ、戦争に行き、そのまま見も知らぬ台湾へ流れつき
『明日は帰れるのか、来年は戻れるのか?』
そう思いながらたった一人で行きぬいてきた乾爸は耳も遠いし、目もあまり良く見えない、歩くのだってやっとなのである。もう、充分にキツイ人生だったのではないのだろうか。
「あと何年でもないだろうし、不便でも、どうせ家とそのまわりをウロウロするくらいなんだから……家族のもとで死にたいよ」
そう言う乾爸を見ていると、お願いだからこれ以上乾爸をツライ目に遭わせないで! と叫びたくもなってくる。

正直言って私にはよく分からない。
そんな山奥の病院もないような……あったとしても高額な医療費を粗末な治療に払うようなところへ、自分の兄弟の家族が居るからといって私は帰るだろうか?
私は多分行かないと思う。
もともと兄弟が居ないということもあるが、雪の降るような寒い場所でヒーターもなく風呂場もなく、豚の鳴くトイレ……きっと私は暮らせない。
その地に生まれ育ったのであれば違うのであろうか?
例えば
「ふにゅらりが無いなんて不便でしょ、可哀相ね」
誰かが私に言ったとしよう。
私は『ふにゅらり』というものが何だか知らない。また、使ったこともない。だから、どう便利なのか、どういいものなのかよく分からない。つまり、私は全然「ふにゅらりがなくても可哀相」なんかではないのである。
しかし、乾爸は違う。この村の生活よりももっと快適な暮らしを台湾でしていたのだ。人間は後退のできる動物なのだろうか?
血縁というのはそんなにも良いものなのだろうか?
頭の中にはそんな疑問が渦巻く。

旅をするのと、そこに定住するのとはまったく違う話である。いくつものぼっとんトイレ、いくつもの風呂場の無い家を見て来た。
でも、その時の私は
「通りすがりの旅人」
でしかなかったのだ。
彼らが可哀相だと思ったこともなかったし、ああ、こういう暮らしをしている人もいるのだなぁと思うだけのことであった。
しかし、自分のよく知っている人がこの環境に身を置くことになるという風に、考えたこともなかった。
きっと夏に来ていたらこんなことは考えなかったかもしれない。しんしんと冷え込む寒さだから、こんな風に思考がマイナスへマイナスへと巡るのかもしれない。
ネギや菜っ葉の植えられている裏の畑を見ながら
「私は完全に甘やかされている」
そう思った。

夕方出発する私を家族は総出で見送ってくれたのだが、私の胸の中は様々な思いでフクザツであった。
「元気でね」
乾爸に声を掛け
「お願いです、乾爸を大切にしてください。これ以上ツライ目には遭わせないでください」
家族のみんなにそう言って、私は深く頭を下げた。
車は走り出したものの、私の中では煮え切らない気持ちがぐずぐずとくすぶっていた。あれだけの大きな荷物はすでに乾爸の家に降ろして来たはずなのに、なぜか心はもっと重くなっているような気がする。

「そんなことない、心配してるようなことは絶対に起こらないよ。大丈夫だって、家族がきっちり世話を焼いてくれるって」
何度も何度も自分に言い聞かせ、すでに闇の落ちた道を駆け抜けるタクシーの中で、私はゆっくりと椅子の背もたれに身体を預けた。