ぼうけんこぞう

旅と冒険(回遊ともいう)の軌跡と映画

乾爸① プロローグ

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「ちょっとそこまでお使いへ行ってきて来てくれる?」
こんな風に頼まれた経験、誰にでも1度や2度はあるのではないだろうか。
母親に醤油の買物を言いつけられた青年は、小銭を手にぶらりと家を出て行くのだろう。
それきり60年以上も家に帰れないだけでなく、見知らぬ島へ連れて行かれたとしたら?
……あなたがこの青年だったらどう思うだろうか?
「そんな馬鹿な」
そう思うかもしれない。
でも、これは1930年代の中ごろにあった本当の話なのだ。

歴史の話を延々とするのは私の趣味ではないけれど、ちょっとこの時代の背景を紹介しておこう。
友人に言わせると、私の知識としての歴史はどうやら台湾寄り、国民党寄りであるらしいので……そのあたりを差し引いて読んで貰えるとありがたい。
この頃というのは日本軍が中国大陸に攻めいっていて、国民党は共産党と勢力争いをして内戦を繰り広げていた。西安事件をきっかけにして第2次国共合作となったのが1936年。
ところが
「力をあわせて日本軍を倒そう!」
と国民党に約束しておきながら、共産党は国民党の兵士を相手に戦い続けていたのである。
作戦だといえば作戦だったのだろうし、「日本人と中国人は外見が似ているから、日本軍だと思って殺したら国民党の兵士だった」なんてことも、当然あったとは思う。
しかし、実際この後の国民党は経済的にも軍事的にも勢力をどんどん失っていった。つまり、この頃の国民党にしたら、とにかく戦力になる若者が一人でも多く欲しかったのである。

そこで冒頭の話に戻る。
追い詰められた国民党は、若者と見れば兵士にスカウトして連れ去るということを始めた。お使いに出された青年がそれきり戻らなかったのは、国民党のしわざであった。
国民党は1949年に共産党軍に追われ、知っての通り台湾に逃れてきた。「見知らぬ島」と先ほど書いたのは私が住んでいた台湾のことである。
1945年以降に台湾へやって来た人達を「外省人」と呼び、国民の約13パーセントほどを占めている。父親の省籍が外省ならば子供も外省人として扱われるので、この13パーセントの中には外省人2世、3世、もしかしたらもう4世も含まれているはず。
当時は60万人の軍人が台湾へやってきたときくが、軍部の高官をのぞく彼らの多かれ少なかれが
「なんだか知らないうちに軍人に仕立てられ、なんだかよく分からないうちに台湾行きの船に乗せられてしまった」
という人達ということになる。
いざ台湾に着いてみれば、当然のことながら家族もなく、お金もなく、土地も無い。
「外から来た人だから、きっとすぐ中国大陸へ帰っちゃうわよ」
台湾の本省人達にはそうささやかれて、嫁に来てくれる女の子も少なかった。
しかし、「すぐ帰るはず」の彼らが1987年11月1日まで、台湾という島に閉じ込められることになろうとは誰も予想していなかったに違いない。

私がここで紹介するのは、こうして台湾へ連れてこられた「青年」との旅である。この「青年」、名前を黄さんと言うのだが、「乾爸(がんばー)」と私は呼んでいる。
「乾爸(がんばー)」は「ゴッドファーザー」とでも訳せるだろうか。

1999年当時80歳、「買物」に出て国民党に連れ去られた時は十七歳、場所は貴州省の山の中であった。
乾爸にはじめて会ったのは、1993年くらいだったと思う。乾爸の家は、私が当時仲良くしていた相棒の実家のすぐ近所。
「ま、お茶でも飲みに来なさい」
誘われて行ったら訛りがキツくて、いったい何を言ってるのかまるきりチンプンカンプンだったというのが最初である。
「なんだ、普通語も分からないのか」
と言われて叱られたのだが、どう考えても乾爸の喋る言葉は「普通語」なんかではない。イメージとしては東北あたりのようなずーずー弁。私の中国語も「四声まるきり無視」で判りにくいと近所では評判であるが、がんばーの「普通語」もまわりの台湾の人にとってはかなり手を焼くシロモノらしい。
その乾爸が数年前から、足繁く中国へ通っていた。
「なんでも弟さんが見つかったんだって」
近所の人から聞かされてはいたのだが、よくある外省人の「親戚訪問」だとばかり私は思っていた。
ところが1999年の旧正月に、乾爸から
「台湾を引き払って、大陸へ引っ込もうと思うんだ」
と聞かされてびっくり。
「引っ込むって、一生そこに住むってこと?」
「そう。弟の家族と一緒に暮らそうと思うんだ」
「ふぅん……そっか、寂しくなっちゃうね」
相変わらず私は乾爸の訛りには慣れず、何度も繰り返して言ってもらわねばならない。しかもここ数年は乾爸の耳も遠くなって、耳元で叫ぶようにしないと会話は出来ない。
それでも、いつも私に家族のように接してくれる「茶飲み友達」を失うのはとても寂しかった。
それと同時に、私の気持ちの中には「嫌な感じ」が霧のように広がった。