ぼうけんこぞう

旅と冒険(回遊ともいう)の軌跡と映画

③トレーニング

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訓練所で最初にするのは、名前を決めること。
私のクラスにはいなかったが、タイ人には『ホチャランポーン』という冗談のような名前があったりして、とてもとても覚えられない。韓国人も台灣人も『ヤンギュー』とか『ヤーチュン』とかいう独特の名前で、しかも4声といわれる4段階のトーンがあって、たとえ覚えられたとしても正確に発音出来なければ、何度呼んでも振り向いてはもらえない。
そこで覚えやすいように、ベティとかヘレンとかいう呼び名を自分で作る。後に乗務するようになると、この名前が彫り込まれた国旗付きの金色のバッヂをエプロンに付けるのだ。1度決めるとよほどのことがない限り変えることは出来ないので、慎重に考えないといけない。

私は自分の名前が好きだし、いまさら『クリスティン』も恥ずかしいので本名を無理やり使うことにした。日本人のほとんどが私のように本名をそのまま使うようだが、『みき』を『ミッキー』とか、『えり』を『エリー』とか工夫している人もいる。

私の経験からいえば、日本人とうまくやっていかれる人種としてはまず台湾人、そしてタイ人と続く。台湾は50年もの長い間、日本軍に占領されていた。そのせいか友達の家に行くのに手土産を持っていく習慣があったり、手土産をもらう方にしても『あら、なんてすてきなんでしょう』と受け取る前に、『そんなにしてもらったら悪い』という感情が顔を出したりして、感覚的に近いところがある。
タイ人に関しては仏教の影響か、あたりがソフトで『言いたい事を言わないで胸の中にしまっておく』ことの出来る人達である。これは日本、台湾、タイ出身のキャビンクルーがフライト(乗務)を始めると、必ずぶちあたる壁でもある。はっきり自己主張をしないとワリを食ってしまう香港社会において、『沈黙は金』ではない。英語にハンデのあるこの3カ国の人は、初めのうち仕事のミスを責められても、どう説明したらいいか分からず黙ってしまうことも多い。その点インド人などは、訛りはあるものの他の国のキャビンクルーより、英語の能力は数段上なので、自分が明らかに悪い遅刻に対しても
「でもね....でもね....」
と数限りない言い訳が飛び出して来て、呆れるを通り越して頭が下がる。
それなら英語が堪能な帰国子女ならいいかと言うと、仕事は楽かもしれないが日本社会でなかなか順応できないのと同じで、会社の日本人からはつまはじきにあったりとなかなか難しい。

自己主張といえば、就職の面接に紺のスーツがつきものの日本とは違って、この会社の面接は実にカラフルだ。夏の盛りの暑い時だったので私自身も全身白のスーツで面接に赴いたが、会場にはショッキングピンクのスーツの人もいれば、赤いジャケットの人もいた。香港のマンションで一緒に住んでいた台湾人に『これが面接の時に来て行った服なんだ』と見せられたスーツはデザインもさることながら、キラキラ光るラメ入りの紫色で、どう見ても面接会場というより夜の銀座に似合いそうな服だったので、ぎょっとしたことがある。もちろん素養とか適性があればの話だが、そんな服を着て面接に行ったとしても、『自己主張が出来て個性的で大変良い』というような会社なのである。
トレーニングでは会社の規則、時差の換算、英語、サービスの仕方、機内アナウンス、緊急避難訓練、応急処置、機内持ち込み禁止物品、面白いところでは家の探し方など、ありとあらゆることを教わる。習った後にはテストがあり、70%以上出来ないと再試、再試が80%以下だと即刻家に送り帰される。
かなり厳しいが試験はほとんど筆記なので、訛りの壁もなく授業中聞いていさえすれば出来る。ただ、緊急避難訓練や応急処置の筆記では、馴染みのない『糖尿病』とか『てんかん』とかの病名や処置の仕方が、英語で登場すること。ジャンボ機を200、300、400と3機種、そしてトライスターと計4機種について『酸素ボンベはどこにいくつ』とかを覚えこむのだが、機種毎に場所や数が違うこと。そしてテスト問題が、日本の運転免許試験なみにひっかかり易くできていることなどで、なかなかあなどれない。
それでも筆記は楽な方で、問題は実践。機内の通路での飲み物サービスの為の道具を、全部揃えて2分以内で組み立てるというのがあった。最初の頃は何がどこにあるのか、数限りなくある戸棚の中身を把握しようと、教室で図表に示された中身をねじり鉢巻き。穴のあくほど見詰めるが、いざモックアップ(模型の飛行機)で準備してみると勝手が違い、やたらに走り回っているうちに時間ばかりが過ぎてしまう。こうしてせっせと覚えた物のありかも、実際のフライトになるとキャビンクルーが自分達の都合の良いように隙間に挟み込んだり、場所を変えたりしているのでまったく意味がなかったりする。
フライトに出るとまったく一人で組み立てることは皆無で、同じエリアの担当同士で手分けをするので、30秒くらいで終わってしまう。現場とトレーニングセンターとは随分やり方が違うのが現実だ。

実技のもっと怖いのは緊急避難訓練で、高い所のモックアップから、滑り台式の避難路を滑り降り、マットの敷いてある床に着地するものだ。怖くて出口のところで立ちすくみ、実技試験だと分かっていながら泣き出す人も出る。人工呼吸の実技試験では、口を開けたゴム製の人形の口元がアルコールで拭いてはあるものの、汚いような気がしてたじろいだり、人形と分かっていて『大丈夫ですかー?』などと肩のあたりを揺り動かすことが、芝居じみていて噴き出してしまったりと、怖い怖いと言いながらも私には結構楽しめた。

ちょっと変に思うかもしれないのが、英語の訓練だ。米語の人はここで徹底的に英語に直される。『出来ません』というのを『キャーント』と発音していた私は何度となく、『カーント』となおされて、いい加減イライラした。 その他、サービスするワインの正式な名前。フランスワインならフランス語、ドイツワインならドイツ語の発音も習う。
でも、教える人はイギリス人なので、フランス語に関しては素養が無いので知らないが、ドイツ語が少しだけわかる私は『ちょっと、違うんじゃない?』と思いながらも、「CH」の発音を「ハ」ではなく「チ」と発音して事無きをえた。(「ハ」で言うと試験パスできない)
こうして英語と日本語にフランス語や、うそつきドイツ語まで加わって頭の中を飽和状態にされるのだが、これもエコノミークラスの現場では堂々と
「赤ワインと白ワイン、どっちがいいですか?」
ときいて、名前などついぞ耳にしたことはない。
ワインの銘柄の名前を把握していないと恥をかいてしまうのは、ファーストクラスで働くようになってからのことで、こんないい加減な赤、白だけの区別でも十分仕事は成り立つ。
いや、かえって名前をいちいち発音していたのでは、400人近い乗客をさばききれないのである。